ここでは管理人の故郷である「新潟県鹿瀬町(かのせまち)」の古きよき時代の写真を展示しています。どうぞごゆっくりご覧ください。今後も少しづつ充実させていきたいと思っています。ご意見・ご感想などありましたら掲示板をご利用ください。

鹿瀬町の町章

鹿瀬町の航空写真
[地理]
 鹿瀬町は新潟県東部の東蒲原郡に属しています。南には津川町や上川村、西には三川村があり、北は山形県、東は福島県に接しています。
 町の総面積は256.77平方Km(鹿瀬地区28.87平方Km、日出谷地区85.57平方Km、豊実地区142.33平方Km)で、県内112市町村中、14番目の広さです。東西25.5Km、南北21Kmの外周は壺を傾けたような形をしており、全域の約94%を山林、原野が占め、北東部の46.12平方Kmは磐梯朝日国立公園特別保護地区になっています。なかでも北部は飯豊山(標高2105m)、御西岳(同2012m)、大日岳(同2128m)、西大日岳(同2081m)など、飯豊連山の秀峰が肩を並べています。
 この峻険な山々を源とする馬取川、実川、大谷川、水沢川、荒砥川、長走川の各川は南流して阿賀野川に注いでいます。

[行政]
 明治元年、東蒲原郡は水原県の所轄となりますが、翌2年には若松県、さらに同9年には福島県に編入されるという目まぐるしく変わる渦の中にありました。
 これ以前の明治8年、麦生野、馬取、新渡の3村が合併して麦馬渡村に、菱潟、船渡が合併して菱渡村になりましたが、翌明治9年9月1日には、この誕生したばかりの麦馬渡村と菱渡村が合併して豊田村になりました。
 また、福島県第15区になっていた鹿瀬町などが東蒲原郡となったのは、明治13年5月5日から施行された郡区編成法以降ですが、明治14年4月から組合戸長役場をおき、鹿瀬町は日出谷村外四ヶ村(鹿瀬村、向鹿瀬村、豊田村、実川村)となります。そして明治19年5月10日、勅令によって700年という長い歳月を会津領(福島県)に属していた東蒲原郡は再び新潟県に帰することになりました。
 その後、明治22年の町村制により鹿瀬村と向鹿瀬村が合併して両鹿瀬村、豊田村と実川村が合併して豊実村になりました。それから66年後の昭和30年4月1日、両鹿瀬、日出谷、豊実の3村合併で鹿実谷村という現在の行政区域になりましたが、翌31年1月1日には鹿実谷町となり、さらに10日後の同月10日に由緒ある「鹿瀬」という町名に変更し、現在にいたっています。

[近況]
 昭和30年4月、両鹿瀬、日出谷、豊実の3村が合併した当時の人口は11374人でした。ところが60年9月30日現在の町人口は3851人。この30年間で約3分の1に減ってしまいました。こうした過疎化現象は小中学校の統廃合を余儀なくし、文化、産業、厚生面など私たちを取りまく日常生活にも影響していることは否めません。
 しかし、角神のローム層から石器が発見されるなど、1万年以上前の太古の時代から人びとに愛されてきた鹿瀬の自然は、いまもその美しさを変えていません。むしろ恵まれた自然は私たち鹿瀬町の誇るべき資産とも云えます。
 加えて、那須火山帯にあたるため町内には麒麟山、角神の温泉源があり、四季を問わず保養客が訪れています。また50年7月、松ヶ崎に開村した「角神湖畔青少年旅行村」にはキャンプ、フィールドアスレチックなど緑の中の生活を楽しむ人たちでにぎわっています。

※昭和61年1月1日発行の<鹿瀬町制施行30周年記念誌>より
※掲載写真には上記"記念誌"の抜粋が含まれています。




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